バッドエンド後日譚(2)

第1話 蕎麦とイチゴサンデーと新しい関係 (2)


「あ〜、お前らも今年は受験な訳だが……」

 何であたしは逃げてしまったのだろう。
 何で栞は相沢君のことを好きになったのだろう。
 何で相沢君は天野さんと一緒にいたのだろう。
 何であたしは相沢君のことを……。


「香里、香里、香里ってばぁ〜」

 名雪の声にふと我に返る。
 今自分はなんと続けるつもりだったのか。
 石橋は教室から出て行ったらしい。
 目の前には、まっさらの「進路調査票」と書かれたカードが置かれていた。

「どうしたの? ぼーっとして……」
「ちょっと考え事」
「進路のこと?」

 そうではなかったのだが、「ええ」と答えた。
 広い意味で言えばそうかも知れないけどね。
 名雪も「そうだよ、大変なんだよ」といつものようにまったく緊張感のない声で答えたけど、名雪の目は本気で困っているようだった。

「何をそんなに困ってるのよ」
「もっと勉強しないといけないんだよ」
「……」
「香里酷いよ、絶対無理だって思ったでしょ」
「そ、そんな事ないわよ」
「うそ。はぁ〜、いいよね香里は」

 何がいいのかは分からないが、本気で名雪は困っているようだった。
 成績のことでこんなに落ち込んでいる名雪を見るのは初めてだ。
 どのくらい困っているかというと、目の前にあるイチゴサンデーをおあずけされているときと同じぐらい困っているんじゃないかな。
 もっとも、そんな状況の名雪と一緒にいた事はないけど。

「どうしたのよ、名雪名雪らしくないわねぇ。イチゴサンデーでも食べて元気付けなさい」
「うぅ〜。私そんなに簡単じゃないよぉ〜」

 いや、それは嘘だ。
 絶対に元気になる。
 名雪がイチゴサンデーを食べたら元気になる。
 天地がひっくり返ったって絶対に変わらない真理の一つに違いないと、あたしは思う。

「うぅ〜。 今香里、絶対失礼なこと考えてるよぉ」
「そ、そんな事ないわよ。で、名雪。何でそんなに勉強しなくちゃいけないの?」
「……笑わない?」
「笑わないって。どうしたのか教えてちょうだい」
「ん。祐一がね……」

 話は簡単なことだった。
 相沢君の行きたい大学と言うのが、名雪にはレベルが高すぎると言うことだった。

「医学部?」
「うん。昨日お母さんと話してるの聞いたの」
「へぇ〜、確かに名雪には難しいかもねぇ」
「うぅ〜、だから大変なんだよ」
「で、どこの大学に行くって行ってたの?」
「……よくわかんないけどぉ」
「……あんたって子は」

 あたしはため息をついた。
 名雪にとっては「医学部=レベルの高い学校」になるらしい。
 まぁ、それほど間違ってはいないけど。

「ねぇ、名雪
「何?」
「UniversityとCollegeの違いって分かる?」
「ええっと、単科大学と総合大学……だっけ?」
「相沢君が行きたいのがどっちかによって、名雪にもチャンスがあるんじゃないの?」
「え?」
「……だから、相沢君の志望校の他の学部だったら大丈夫なんじゃないのってこと」
「……あ、そうか」

 名雪が納得したような顔をした。
 そうか、相沢君も医学部志望なのか……。
 あたしは目の前の進路表を眺め、そして、栞の顔を思い出した。
 そこにいた栞は笑顔だった。



 進路か……。
 昨夜秋子さんに相談したときには、まだ漠然とした思いだった。
 冬の間ずっと真琴と栞のことを考え続け、当然のように出てきた結論だった。
 安っぽいかもしれない、と俺も思う。
 でも、あの時俺は自分の無力を思い知った。
 もし俺に力があったら、あの時何かできたかもしれない。
 いや、もしできなかったとしても、力になることはできたかもしれない。
 驕りかもしれない。
 でも、俺は。

「祐一さん、どうしましたか?」
「いや、ちょっと考え事」

 手にしていた参考書を書架に戻した。

「?」
「いや、何がきっかけになるか分からないもんだなって思ってな」
「それを言ったら、今私と祐一さんがここにいる事だってそうじゃありませんか」
「そうだな……本当に変な縁だったからな。美汐との縁は」
「……確かに変わっているとは思いますが、変というのはちょっと」
「あ、悪い」
「……でも確かに変かも」
「……おい」
「冗談です」

 確かに変な縁だと思う。
 妖狐つながりの縁などといっても誰も信じてくれないだろう。
 既知外呼ばわりされるのが関の山だ。
 でも、美汐がいなかったら、俺はどうなっていただろう。
 真琴と栞と、立て続けに失ってしまった俺は……。

「どうされましたか?」
「いや、なんでもない」
「……」
「……感謝してるって事」
「は?」

 なんだかよく分からないと言う顔だ。
 まぁ、唐突過ぎたか。
 そのまま不思議そうな顔をしている美汐を促して、本屋を出た。



 そうか……相沢君も医学部志望……か。
 寝る準備を整えたあたしは、机の上に置いたままにしておいた進路票を見た。
 栞……あなたがいたから……あなたのために……その筈だったのにね。
 不純だ、あたし。
 そのままベットに倒れこむ。
 喜んでいるあたしがいる。
 栞がいなかったら、栞が死ななかったら、おそらくそうはそうならなかったのに。
 そして……栞がいなかったら、相沢君のことをそういう対象としてみることもなかっただろうという気持ち。
 まったく分からない。
 どうしたんだろう最近のあたしは……。
 栞が死んでからのあたしは…………理解不能だ。
 思いがずぶずぶと底なし沼に嵌りかけたところで、それを遮るかのように充電器に挿してあった携帯電話が鳴った。



「あ、大丈夫……じゃあ、来週の日曜日って事で。はい、それじゃ日曜に」

 電話を切った。
 まだ学校が始まったばかりでばたばたとしているのではないかと思いつつも電話をしてみたが、さすがは佐祐理さんだ。
 多分、舞の分もいろいろとしていただろうに。
 入学したばかりの二人に会って大学の話を聴くというのも変な話だとは思ったが、試験の傾向とかを聞くのは問題ないだろう。

「あ、電話終わった?」

 名雪だ。
 眠いのだろう。
 半纏の袖でゴシゴシ目をこすりながら二階から降りてきた。

「あ、悪いな」
「ううん、いいんだよ。香里にちょっと……」
「香里?」

 ここのところ、どうも声をかけそびれている。
 というより、避けられているような気もする。

「うん……ちょっとね。祐一、悪いけど……」
「あ、悪ぃ、気がつかんかった」

 聞かれたくない話なのだろうとさとって、階段を上がり自分の部屋に戻った。
 机の上には今日買ってきた参考書が、まだ袋に入ったままで置かれている。
 今日のところはいいだろうと思い、ちょっと早いながらもベッドの中にもぐりこんだ。



「佐祐理、電話?」

 バスルームから舞が顔をだけ出して佐祐理に訊いてきました。
 佐祐理たち二人は今同じ大学に通っていて、賃貸マンションを借りて一緒に住んでいるんです。
 ……できれば祐一さんもいるといいんですけどね。
 先ほどの電話の内容からすると、祐一さんも佐祐理達のいる学校に来ることになるんでしょうか。
 ふふふ。

「……佐祐理?」
「そうだよ、舞。でもね、誰からかは秘密なんです」
「佐祐理……意地悪」
「今度の日曜日には分かるよ」

 舞は怪訝そうな顔をしながらもそれ以上追求することもなく、顔を引っ込めた。
 日曜日には舞のびっくりした顔を見れそうです。
 あはは〜。



「うん、がんばるんだおぉ〜〜ぉ…………」
名雪、いつもはもう寝てる時間なんでしょ。勉強は見てあげるから」
「…………だぉ〜」

 急に名雪が明日から勉強を見て欲しいと言い出してきた。
 名雪名雪でいろいろとがんばっているんだろう。
 まだ相沢君の志望校は決まっていないらしく、どこになってもいいようにと勉強を始めることにしたのだそうだ。
 理由は少々よこしまかもしれないが、勉強する気になったこと事態はほめてあげてもいいかもしれない。
 もっとも、あの子に対しての申し訳なさから医者になろうと思っているあたしも、十分によこしまなのかもしれない。
 元々は、あの子のことを治してあげたいっていう純粋な気持ちだった……ような気がする。
 でも、そんな遠い昔のことなどもう忘れてしまった。
 あの日、記憶からそんなことをきれいに流し去ってしまうくらい、相沢君の前で泣いてしまったから。

「詳しいことは明日学校で聞くから、早く寝なさい」
「……う、うん、分かったぁ……おやすみなさい、だおぉ〜」

 電話の切れる音がした。
 あの子が自分の部屋まで無事戻れることを祈りつつ、あたしも電話を置いた。



 明日のお弁当の準備は整いました。
 朝はちょっと早いですが、目覚ましをかけておけば大丈夫でしょう。
 もう一度確認をしてから、私は自室にもどり布団にもぐりこんだ。
 明日突然朝早く尋ねていってピクニックに行こうって誘ったら、祐一さんは喜んでくれるでしょうか……。
 突然すぎてビックリするかもしれませんね。
 私はビックリした顔の祐一さんを思い描いて、クスリと笑う。
 突然で迷惑かもしれませんけど、でもでもたまの息抜きは重要だと思うのです……絶対に。
 枕元に置いてある目覚まし時計のぜんまいを巻いてから目覚ましのスイッチをオンの方に入れた。
 これでよしっ。
 ……祐一さん、おやすみなさい。